大判例

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最高裁判所第三小法廷 平成4年(行ツ)56号 判決

上告人

三島洋

右訴訟代理人弁護士

川下清

小坂井久

山崎優

三村邦幸

河村利行

被上告人

兵庫県

右代表者知事

貝原俊民

被上告人

東清次

右両名訴訟代理人弁護士

俵正市

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人川下清、同小坂井久の上告理由について

所論の点に関する原審の事実認定は、原判決挙示の証拠関係の照らし首肯するに足り、原審の適法に確定した事実関係によれば、上告人が本件各研修を行うことにより、各研修予定日に実施される定期考査やその他の校務の円滑な執行に支障が生じるおそれがないとはいえない上、本件各研修を各研修予定日の勤務時間内に勤務場所を離れて行うべき特別の必要性があったとも認め難い。したがって、被上告人東清次が本件各研修につき教育公務員特例法二〇条二項に基づく承認を与えなかった措置はその裁量権を逸脱、濫用したものとはいえないとした原審の判断は、正当として是認することができる。原判決に所論の違法はない。論旨は、独自の見解に立って原判決を論難するか、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するものにすぎず、いずれも採用することができない。

よって、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官大野正男 裁判官園部逸夫 裁判官佐藤庄市郎 裁判官可部恒雄 裁判官千種秀夫)

上告代理人川下清、同小坂井久の上告理由

第一 教育公務員特例法第二〇条二項の解釈の誤り

一 原判決の誤り

原判決は、教育公務員特例法(以下、教特法という)第二〇条二項の解釈を誤った法令違背があり、この誤りは判決に影響を及ぼすことが明らかであるので、原判決は破棄を免れない。

その解釈の誤りは、次の四点である。

1 教特法二〇条二項は、教員に自主的研修を行なう具体的権利を付与したものではないと解した点。

2 教特法二〇条二項は、研修を承認するか否かの裁量判断権を本属長に付与していると解する点。

3 右の裁量判断において判断すべき要件の一として、教員から申し出のあった研修計画が勤務場所からの離脱を相当とすべき研修に該当するか否か、を加えている点。

4 教特法二〇条二項の「授業」を「校務運営」に拡張して解釈している点。

以下、まず憲法、教育基本法の理念に基づき、教育公務員特例法が教員の研修を規定する趣旨を明らかにし、自主研修がまさに教員の権利であることを明らかにし、次いで各点についての誤りを明らかにする。

二 教員の研修

1 教育基本法

日本国憲法第二六条一項は、教育の重要性に鑑み、国民に基本的人権の一つとして、「法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利」を保障している。

教育基本法は、右の日本国憲法の精神に則り、「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」(第一条)と教育の目的を明示し、この「教育の目的は、あらゆる機会にあらゆる場所において実現されなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない」(第二条)と教育の方針を定めた。

そして、教育を受ける権利を保障し、教育の目的と方針を実現するため、教育の主たる担当者である学校の教員について、「法律に定める学校の教員は、全体の奉仕者であって、自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならない。このためには教員の身分は、尊重され、その待遇の適正が、期せられなければならない」(第六条)と規定した。

右の各法条から明らかなように、教員の身分は尊重され、国民の教育を受ける権利を保障し、教育の目的及び教育の方針を実現することを可能とする待遇を与えられねばならず、教員の身分、待遇に関する法令は、右の趣旨に基づき、右の趣旨に副って解釈されなければならないのである。

2 教特法の立法趣旨

教特法は、右の憲法及び教育基本法の規定を受けて、教育公務員に関し、その身分の尊重と待遇の適正をはかるため、国家公務員法及び地方公務員法(教特法制定当時、地公法は未成立であったが、将来の制定が予想され、これの特例となることが予定されていた後に地公法五七条によって、これが確認された。)の特例を規定したものであるが、第一に教育公務員に関し、その任免、分限、懲戒、服務等につき特別の規定を設けるものであり、第二に教員の研修について特別な配慮を行うこと、第三に学問の自由あるいは教育の自主性を尊重するために、特に一般公務員と区別して特例を設けて身分の保障と権利の規定を行うという趣旨から立法されたものであり、基本的には教員の職責と身分を優遇的に権利として保障するものである(第一審における岡村達証人の証言)。

この点は、当時内閣に設置されていた教育刷新委員会が、教育基本法が公布、施行された一九四七年三月の翌月、「教員の身分待遇および職能団体に関すること」という建議を総会採択した中で「一、教員の特殊な使命に鑑み、教員の身分を保障し待遇の適正をはかり、以て教員をして、その職責の遂行を完からしめるため、政府は速に教員身分法(仮称)を立案すること」、「右の教員は学校教育法に定める教員をいうのであって、官公私立の学校を通じて教員はすべて特殊の公務員としての身分を有するものとすること」としていたことにも表れている(法学セミナー基本コンメンタール「新版教育法」三六五頁)。

また、二の研修の点については、一九四八年一二月九日、衆参両院の文部委員会で行なわれた文部大臣の同法案の提案理由および概要の説明において、「教育公務員は、その職責の遂行上、当然研究と修養に努めなければならないものでありますから、この点について国家公務員法の教育訓練に関する事項を積極的に拡充明示して規定いたしました。」(傍点引用者)と説明されていることからも明らかである。

このように教育公務員の研修について教特法が、その職責の遂行の観点から、一般公務員の研修についての国家公務員法の条項を「積極的に拡充明示」するという右立法趣旨は立法当初においては極めて明白にされていたのである。

3 教員の研修

教特法は、研修に関する教育公務員の特例を重視して独立の章としており、同法第一九条はその原理的規定である。

研修とは「研究と修養」がつづまった語であるとされるが(辻田力監修「教育公務員特例法」一二八頁)、一般の行政公務員の研修が主に任命権者が計画する「勤務能率の発揮及び増進」の手だてと解されるのに対し(地方公務員法第三九条、国家公務員法第七一条三項、第七三条)、教育公務員の研修は、言葉は同じでも意味合いが異なる。

この相違は次の二点に基礎を置く。

一は、憲法第二六条一項の教育をうける権利及び同第二三条の学問の自由並びに教育基本法第一条の規定する教育の目的、そしてこの教育の目的が「あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければなら」ず、「この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するよう努めなければならない」という同法二条の(教育の方針)の規定の中に表れた教員の身分に対する法の根本的観点である(岡村証言五丁)。

二は、教員は「全体の奉仕者」であるとしつつ、「自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならない」との規定(同法第六条)や「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に直接に責任を負って行われるべきものである」との規定(同法一〇条)などに表れている、教育の国民に対する直接の責任と独立性の観点からみて、教員は、国民に直接の責任を負いつつ、不当な支配から独立して教育を行うことを使命とする、極めて重要な職責を担うものであるという点である。

この二点に、教員の研修が一般の公務員のそれと異なる基盤がある。

4 専門性

前述のような憲法及び教育基本法等の要請を充たす教育を実践するためには、教員は、人間的「修養」を積むとともに、教育的専門性を高めるべく教育「研究」に努めなければならない。特に研究は不可欠の要因である。

教師の任務が、子供、青年の人間的発達を保障し、その学習と探究の権利を充足させることにあるのだから、教師は、教育内容、教材についての科学的知見を持ち、同時に、子供の発達についての専門的識見をもち、さらに授業や生活指導を通して、その発達を保障するための、不断の研究に裏打ちされた専門的力量が求められる(堀尾輝久、兼子仁「教育と人権」八八頁)。

教職を維持していくためには、不断の新しい知識、新しい視野、新しい知見や識見、学問的な成果や教育上の技術の獲得に努めなければならない。また、教育を受ける子供達に対して直接に責任を負って、具体的な人格的な立場から子供達の教育を保障し、発展を助長していくという、教育の本質からも、研究が要請されている。まさに研究と教育は不可分一体である。

このように教員は、他の公務員一般と異なり高度の専門性を必要とし、これを取得、維持するための研修が必須なのである。

三 教育における自主性の保障

1 自主性

第二次世界対戦での敗戦前におけるわが国の教育は、政治的権力の主体であると共に、皇祖皇宗の遺訓に基づいての道徳の大本を指し示す精神的価値体である天皇(堀尾輝久「天皇制国家と教育」四九頁)の大権の一つとされ、国家のために忠良なる臣民を養成することを目的とする国民道徳形成を主眼とする国家主義的なものであった。義務教育は、国家に対する義務として行われた。

そこでは教育に関する事項は、議会の意思を越えて(超然主義)、教育勅語をもってその方針が定められ、帝国大学令以下の勅令によって規律され(命令主義)、公教育は、特別権力関係下にあるとされた天皇の官吏としての教員によって行われ、学生、生徒もまた特別権力関係の下にあるとされた。

教育行政は、内務行政の一部としての権力的行政と捉えられ、学校教育そのものも権力作用と理解されていた(非権力的性質において捉える美濃部達吉などは異説とされていた)。

教育内容もまた修身を筆頭教科とし、教育勅語の徳目の注入による国民道徳の涵養を中心的任務とするものであり、教科書は、勅語の趣旨に基づいて編纂された(文部省、国定教科書編纂趣旨書)国定教科書のみという強い統制のもとにおかれていた。

右のような教育体制によって超国家主義、軍国主義教育を押し進め、戦争への道を突き進んだことに対する反省から、教育教本法は、教育の目的を掲げ教育の方針を明示して、前述の如く、不当な支配から独立して国民に直接責任を負って教育を行うべきであるとしているのである。

正しい教育の「内容の科学性や芸術性は、教科や教材の自由な研究の深まりを措いてなく、方法の科学性は、子供の発達についての科学的認識を基礎とする以外にはありえない。そこから、教師は、科学的真実と芸術的価値にもとづく教育内容研究と、子供の発達についての専門的知識をもち、……授業過程における教材を子供の出合いのなかに、子供の発達の新たな契機をさぐりあて、さらに新たに、適当な教材を準備することのできる専門家であることが要請されている」(堀尾輝久「現代教育の思想と構造」岩波書店、一九七一年三二七頁)。

また、特定教科書の教材の解釈を中心とした戦前の教育研究と異なり、教育の自由と教育の独立とが謳われる戦後の教育研究は、教員が自主的に自らの教育あるいは教材に対して、創造的にこなしていく、または、自らの研究を通して教育を充実させていくことが要請されている。この点からも教員の自主性と専門的な識見が要請されている。このため、教員における研究、研究の自由がことのほか重視されている。そういう趣旨が研修の規定の背景に存在しているのである(岡村証言六丁)。

2 研修における自主性の保障

教特法一九条一項の「努めなければならない」というのは、行政当局が計画した研修を受けるべく義務づけられることではなく、自主的に研究と修養に努めるべき努力義務である。それは一種の服務ではあるが、同項は、前述のように教育には専門的研究と人間的修養とが不可欠であるという教育条理を確認する規定である点に主たる意味がある(兼子仁「基本法コンメンタール新版教育法」以下、単にコンメという。有倉遼吉=天城勲「教育関係法Ⅱ」五四〇頁〔有倉〕)。

教員の行う教育研究と人間的修養は、教育活動自体とともに、他律的強制にはなじまず、教員個々人の人間的主体性と学問の自由の一環としての研究の自由とが貫かれているべきである。

この点は教育条理的根拠の立場からは、次のように説かれている。

教師の自己の人格に統合―インテグレート―された徳性・知識・技能でなければ、教育によってそれを児童生徒に与えることはできない。そして、教師において、徳性・知識・技能がその人格に統合されているためには、教師の側における、その知識、技能を自己の人格に統合しようとする、すぐれて自主的・積極的な関心・態度が必要なのである。たとえば庶務に従事する公務員が、帳簿の能率的処理の方法を教育訓練される場合には、彼は全人格的な自主的態度をもってことにあたらなければならないとはいい難い(宗像誠也「教師の研究の自主性の主張」教育一九五九年六月号七八頁。同旨兼子仁法セ「新版教育法」三九〇頁)。

教員の職務としての研修は、教育研究こそがその主たる実体であり、とすればそれは教育に関する研究活動である以上、法的に自主独立性を持つべきものである。

3 権利性

このように研修は、教員の人間的主体性を必須とするので、教特法第一九条一項は、行政その他からの研修を受ける義務ではなく、かえって、条理上教師の研修上の自主性という一種の権利保障をふくんでいると解さなければならない。この教育研修上の自主性は、法文にも「研究と修養に努め」るとか、「研修を行なう」(法第二〇条二項)とかの、行政公務員の規定に見られない表現がある点において明らかである。

従って本務である教育について職務命令をうけない保障が教師の「教育権」(教育基本法第一〇条一項、学校法第二八条六項)であるが、それとならんで職務としての教育研究についても原則として職務命令をうけない「自主研修権」の保障がなければならない。教師の職務的教育研究が自主独立性を保障されなくてはならないことは、直接には教育基本法第二条が教育の場における「学問の自由」を、同じく第一〇条一項が教育に対する「不当な支配」の禁止を定めているなかにその趣旨が込められていると解される。

教員の自由と自主性が尊重されるべきことは、札幌高等裁判所昭和五二年二月一〇日判決(判時八六五号九七頁)も認め次のように述べている。

教師たるものが右の方針に従いその目的を達成する教育を施すためには極めて高度な知的能力を要請されることはいうまでもなく、教育の本質が教師と教育対象者間の精神的交流を基盤として行われる全人格的なものであることに鑑み、教育対象者に与える教師の全人格的影響には多大且つ深刻なものがあるといわなければならない。それゆえ、理想像たる教師はその教育を施す職責の遂行上まず自ら専門分野における先達たるべき能力と高邁な人格を具有する者であること、しかしてその成果をのこりなく良き成果として教育対象者に伝承せしめることが要求されるのであって、教師たる者はかかる理想像に向けて自主研鑽に努むべく、社会一般が個々の教師に要請し期待するところも右の如きあるべき姿の教師であって、それゆえにこそ教師は単なる専門的職務の従事者たるにとどまらず、いわゆる聖職者としての敬意を表されるべきものといわなければならない。従って、教師にとって研究修養は、自己完成目的に志向される手段であるとともに、教師たる資格を具備するための必要不可欠の要件ともいわなければならず、その自由と自主性は尊重されなければならない。教特法第一九条、第二〇条において、教育公務員は「絶えず研修と修養に努めるべき」こと、「研修を受ける機会が与えられるべき」ことを明示し、使用者の地位にある任命権者、本属長は、研修のための物的施設、研修実施方法についてこれに協力すべきことを定めるとともに、一定の条件のもとに勤務場所外における研修をも認め得る途を開いているのも右趣旨に副うための規定と解すべきである。

四 自主研修権

1 職務としての自主研修

以上のように、教員の研修は、教育研究と人間的修養であるから、教員が自主的に計画する「自主研修」が本来的であり、授業(教育)に次いで重要な教員の職務である。

教育委員会などの教育行政機関が計画する教員に対する研修は、一般に「行政研修」と呼ばれるが、文部当局の行政解釈では、自主研修は、原則として勤務時間外に教員が個人的に行うべきものであり、教特法第二〇条二項は、例外的に勤務時間内に職務専念義務を免除されて任意に校外に出られる「義務免研修」を認めたものと解し、学校管理機関から職務命令を受けて参加する行政研修こそが正規の職務研修にほかならないとされている(文部省地方課法令研究会「新学校管理読本」)。被上告人らの見解もこれに基礎をおいている。しかし、職務命令による場合が正規の職務研修だという見解は、教員を一般の行政公務員と過度に同一視するものであって、前述のような教員の研修における自主性の要請にそぐわない。

教育をすることは教員の本務であり、教員の研究は教育と不可分一体のものとしてとらえられているのであるから、教特法の研修に関する規定は、基本的には職務として勤務時間内における研修を保障していくという趣旨において理解されなければならない。

即ち、職務としての自主研修が基本的なのであって、これこそ、教員が主たる職務である教育について「教育権」が保障されているのと並ぶ、教師の「自主研修権」であると解するべきである。その法律上の根拠は、憲法第二三条(学問の自由)、第二六条(教育を受ける権利)、教育基本法第一〇条一項(教育の自主性)、教特法第一九条一項、第二〇条二項などにあるが、その根本的基盤は教育条理である。

2 義務免研修説―札幌高裁判決

文部当局の行政解釈も本法制定後かなりの間、職務研修説をとり、教特法第二〇条二項の研修を職務と見ていた。

・本条(法第二〇条)の規定による研修の場合は当然勤務と見るべきである(文部次官通達昭和二四年二月五日発学四六・甲第二三号証)

・夏期休業日等の休業日においても、勤務を要する日には、出校して勤務するかまたは本属長の命令もしくは承認によって勤務場所を離れて勤務(たとえば研修会等への参加、自宅での研修等)すべきである。これらの場合には、もとより勤務扱いとなるが、その他の場合には、休暇の承認を受けるなどの手続をとるべきである(昭和三三年九月一三日文部省初中局長の岩手県あて回答・甲第二二号証)。

それが一九六四(昭和三九)年の行政実例(一二月一八日初中局長回答)によって変更され、職務専念義務免除による研修とする説(以下、義務免研修説という)が唱えられるにいたっている。

前記札幌高裁判決は、

教育者に要求される責務は、一定の場所での当該教育施設の活動と密接不可分な一定時間内における授業その他の日常業務的職務に限られるものではない。しかし、社会的地位としての教育者の責務は、教育者一般の立場において期待される教育者にふさわしい人格者として要請されるそれであって、特定営造物の人的要素たる教員の給与に対応して予定される業務の担当すなわち勤務は、質量ともに無限定、無定量ともいうべき右教育者一般の責務とは異なり、施業主体との雇傭関係における身分上の地位に基づき課される日常的業務としての教育活動に限られるといわなければならない。

そうであれば、教員の「勤務」は、「勤務場所における教育を施す活動」を原則とする「特定教育施設の運営活動たる日常的業務に従事すること」である……

と述べ逆に研修については、

(教特)法第一九条一項が、「職責を遂行するため」に、「絶えず」、すなわち場所及び時間を超えた無限定のものとして「研究と修養」に努めることを義務づけているのであって、「職務の遂行として」これを義務付けているのではないのみならず、これを給与支給のための勤務とみることは教育公務員にとって極めて過酷を強いることになり、教育公務員の一般的な給与体系に照して到底是認しえず、同条はその文言からして教育公務員についても前示理想像たる教職者としての人格能力の具有を期待する趣旨においてこれに必要不可欠な研究、修養への努力義務を、理念的、職業倫理的意味において規定したにとどまるものと解するほかはない。

と判示して、一方で教員の職務たるべき研修を「社会的地位としての教師の責務」というような曖昧かつ抽象的なレベルに追いやり、逆に職務という概念を給与支払の対象となる勤務という具体性の中に限定して両者を隔絶させるという論理構成を行った。同法第二〇条二項の研修についても、「教育に携わる者としての自覚に基づく自主的、自発的な研究修養を包摂するものといわなければならず、特にこれを第一九条第一項の『研究及び修養』と異なる勤務性を付与した規定と解すべき理由はない」と解し、給与支給の対象たる勤務に当たらないと判断し、教特法第二〇条第二項を「特定の雇傭関係の上に立つ勤務即ち職務専念義務を前提とした規定」とした上で、

同法第二〇条第二項所定の要件のもとに行われる勤務場所以外での研修も、その性質上後述する職務専念義務違反となるか否かの点は格別これを勤務もしくは勤務に準ずるものとして把えることはできない

と判示した。これは義務免研修説の立場に基づきこれを最も理論的に構成したものである。

しかし、かかる解釈は、教員の自主的研修を尊重する所以ではなく、失当である。

3 義務免研修説(札幌高裁判決批判)

教特法第二〇条二項の研修を、職務と理解するか、あるいは、職務専念義務の免除と理解するかは、研修に関する理念的な問題であって、実際的には研修に係わる旅費などの支給の是非の問題となるにすぎないように説く立場がある。確かに、職務専念義務の免除の手続として行われる承認が、教特法第二〇条二項の「承認」と同じ実質をもった行為として把握されるのであれば、旅費の問題等を除き、どちらの見解をとるかはさして重要な問題ではないように思われる。

しかし、同項における研修を憲法及び教育基本法の要請に従った教員の職務として捉える立場(自主的職務研修説)と、教員としての職務専念義務を免除された状態と捉える立場(義務免研修説)とは、研修権の重要性の評価及びその保障の強弱という点において大きく異なる要素をその内にはらんでいる。

自主的職務研修説は、憲法及び教育基本法の要請は、教員の研修権の保障の根拠であり、自主研修がこれらの要請を充たすために不可欠であること及び研修と教育とは不可分一体であることを正しく把握し、研修は教育(授業)に次ぐ重要な職務であると解するのであり、この立場からは、研修を授業以外の、それより重要性の低い校務や学校管理上の必要性と比較衡量することなど論外である。仮に論外とまではいわないとしても、その衡量は研修を重視したものでなければならない。

後者の立場に立つ前記札幌高裁判決は、教員に重責を課すとともに、それと裏腹なものとして教員の研修権の保障を要請する憲法及び教育基本法を「教育に関する理念的規定ないし行政主体に対する教育行政上の配慮義務を定めた規定であるにとどまり、これらの諸規定が教育公務員の自主的研修参加の一般的自由を具体的に保障するのみならず、これを勤務たる職務とした根拠規定であるとは到底認められない」として、教特法の自主研修を憲法及び教育基本法から切離してしまっている。しかし、これは、前述のような教特法の立法趣旨そのものを無視した論理であって承服しがたい。逆に見れば、教特法第二〇条二項を同判決のように解釈しようとすれば、憲法及び教育基本法に基づき、前述のような立法趣旨をもって制定された教特法を、このように、憲法・教育基本法から切り離してしまうことが、論理的に必要であることを示している。憲法・教育基本法に基づき、その立法趣旨に照らして解釈する限り、札幌高裁判決のような解釈は採り得ないのである。

また、同判決は、前掲の如く、自主的研修は時間的、場所的に拘束されず内容的に無定量、無限定のものであるとして、自主研修の抽象的な側面を強調することによって、「その義務は性質上職業倫理として要求され得るにとどまり、具体的に法的義務としてこれを要求するには適さず、従ってこれに対応する権利としても具体的にこれを保障するには親しまないものというべきである。」としているが、これは研修の中に含まれる人格的修養の曖昧な一面を捉えてこれが全部であるかのごとく論じるものであって誤りである。研修は、研究と修養であり、研究は、新しい知見、新しい視野の獲得というような抽象的レベルから教材研究のような、目前の授業の準備という具体的なものまでを含む幅広い概念である。前記の高裁判決のような論旨によれば、教材研究その他の授業内容を不断に改善していくために必要不可欠の作業すらが、職業倫理として要求されるにすぎないものとなってしまう。

そして、その一方で職務を「給与支払いの対象たる勤務」として把握し、この意味での「教員の『勤務』は『勤務場所における教育を施す活動』を原則とする『特定教育施設の運営活動たる日常的業務に従事すること』であるというべき」であると限定しているのであるが、このような解釈は、毎年全く同じ内容の授業を繰り返して些かも改めようとせず、その余の時間は漫然としてひたすら勤務時間の過ぎるのを待っているような教員をして、職務を果たしたと評価するものと言わざるをえないであろう。このような教員の有り様が、法の予定する教員の「あるべき姿」と全く対極的なものであることは札幌高裁判決を認めるところである(前掲三項3に引用した部分を見る)。即ち、同判決は、教員の「あるべき姿」を実現するための目的的な立法である教特法の解釈指針を、完全に誤っているのである。

また、同判決は、右のように、一方で研修を過度に抽象化し、他方で職務性の概念を給与支払いの対象としての勤務として過度に具体的に、悪く言えば矮少化し、両者をそれぞれに歪めて描き出すことによって隔絶させ、あたかも相容れないものであるかの如く論じ、研修は勤務ではなく、勤務を免除された状態即ち職務専念義務の免除であるとしているのである。

同判決のこのような論理はそれ自体厳しく批判されるべきものであるが、この論理は単に研修と右のような意味での「勤務」とが別のものであるというにとどまらず、自主研修を授業以外の「その他の日常的業務」より重要性が劣るものと解釈する基盤を提供している点においてより一層厳しい批判の対象とならざるを得ない。

即ち、自主的職務研修説の立場からは、研修も職務である以上、職務全般の中でその重要性が論じられ、当然、授業に次いで(従って、その他の業務よりは上位の)重要性を付与されるべきものと考えられているのに対し、義務免研修説では、校外研修を勤務外と理解することによって校外研修の重要性を授業以外の業務を含む勤務全体と比較する枠組を作り出し、これによって後者を前者よりも優位に置く傾向を齎しているのである。

このような傾向は、憲法及び教育基本法の要請に背馳するものであり、前掲のように高裁判決自身が認めた研修の重要性を卑しめ、蔑ろにするものと言わねばならない。法は制度を作り、制度が人間を作る、明日の授業の充実のための研修よりも「校務」の名の下に要求される作業や管理のために勤務時間の高速を重要視し、後者を比較衡糧において優位に置く法解釈は、結局そのような教員を育て、教育を荒廃させる結果を招来するこれは将来に対する危惧ではなく、既に現実化し始めている。

このようにみるとき、やはり、教特法は、憲法、教育基本法に基づき、「あるべき姿」の教員を生み出し、育てるという立法趣旨に従い、合目的的に解釈されなければならない。自主的職務研修説を採用し、義務免研修説は排されるべきであるとする所似は実にこれである。

五 教特法二〇条二項が具体的権利を付与していることを否定した誤り―上告理由第一点

右に縷述したところによって明らかな如く、教特法二〇条二項は、教員に対し、自主研修権を保障し、これに基づき、授業に支障がない限り、本属長の承認を得て勤務場所を離れて研修する具体的権利を付与したものである。

しかるに原判決は、同項は「教員に対し、自主的研修を行う具体的権利を付与したものでもない」と判示して、その権利性を否定した。その誤りであることを以下に明らかにする。

原判決は次のとおり判示する。

教特法一九条、二〇条一項は、教育公務員の研修(研究・修養)に対する努力義務を理念的、職業倫理的観点から抽象的に規定し、かつ任命権者にもその助成措置を講じると共に、職務命令によるものばかりでなく教員の自発的ないし自主的なものを含む研修の機会をでき得る限り与えるべき、一般的・抽象的義務を定めたものと解するのが相当であり、任命権者に対し、教員が自主的に行う研修に協力すべき具体的義務を負担させたものではなく、同時に、教員に対し、自主的研修を行う具体的権利を付与したものでもないと解するのが相当である。このことは、勤務場所に所定の時間勤務する義務のみを有する教員に対して、さらに勤務としての無定量の研修義務を負わしめることはできないものと解されることから明らかである。

右の判示は、甚だ簡単、粗略であって、前掲札幌高裁判決のレベルにすら遠く及ばないものである(そもそも前掲判示の傍線部分は二〇条二項の解釈であるはずなのに、一九条及び二〇条一項の解釈の連続として記述されている点からしておかしい。しかし、この部分全体が上告人の二〇条二項解釈に関する主張に対する判断であるから、二〇条二項の解釈を示すものと解する他はない)。

仮に、原判決の言うように、教特法一九条、二〇条一項が教員の研修に対する努力義務を理念的、職業倫理的観点から抽象的に規定し、任命権者に対しても、その助成措置を講じると共に自発的、自主的なものを含む研修の機会をでき得る限り与えるべき「一般的・抽象的義務」を定めたものであり、研修協力への具体的義務を負担させたものではないとしても、仮に教員に勤務として無定量の研修義務を負わしめることができないとしても、そのことは論理必然的に二〇条二項が教員に具体的権利を付与したものであることを否定する根拠にはならない。

前述の如く、教員の「特殊な使命に鑑み、教員の身分を保障し、その待遇と適正をはか」って制定された教特法は、教員の研修の専門性と自主性という一般の公務員とは異なる点を重視し、その重要性に鑑みて教員の権利保障の規定を行うという趣旨に基づいて二〇条二項のような規定を置いたのであり、同項の条文は「授業に支障の無い限り……研修することができる」と極めて具体的に規定しているのである。立法趣旨に則り、条文を素直に読めば、同項は要件を定めて無定量の義務(あるいは権利)ではなく、具体的な権利を教員に付与し、その研修の機会を保障した規定であることは明白である。

従って、授業の支障という要件並びに「本属長の承認」という手続についてどのような解釈をするにせよ、その要件を充たす限りにおいて、教員は適正な手続を経て勤務場所を離れて研修する権利を有するのである。要件と手続の解釈のいかんにかかわらず、研修が教員の権利であって、決して恩恵的に付与される恩恵でないことは同項の解釈の根本である。

しかるに原判決は、前述の理由にならない理由の他に、何らの論理的根拠を示さず、二〇条二項が教員に具体的権利を与えていることを否定しているのであって、これは判決に影響を及ぼすことが明らかな法令解釈の誤りである。

六 教特法二〇条二項は本属長に研修の承認についての裁量判断権を付与していると解した誤り―上告理由第二点

教特法二〇条二項は、前項で述べたとおり、授業に支障のない限り、本属長の承認を得て勤務場所を離れて研修する具体的権利を教員に対して与えたものである。

従って、これを具体的権利として保障する法の趣旨に基づき、「授業」の支障の要件及び本属長の承認という手続の解釈をしなければならない。この具体的権利を保障せず、有名無実化したり、恣意的、恩恵的な特権の付与のごとく理解するような解釈は、法の趣旨の根本に反するものである。

教特法第二〇条は、同法第一九条が教員の自主的な研修の努力義務と教育行政当局による研修条件整備の義務を定めたことを受け、教員が研修を行おうとする場合に行政当局がその機会を保障するしくみを規定したものであり、第二〇条二項は、前述のように具体的権利付与と同時に、勤務時間中に勤務場合を離れるため、主たる職務である授業との調整手続を定めたものである。

そして、同項が定める手続は、「授業に支障のない限り」という明定された要件の存否についての確認という手続であり、授業に支障のない限り承認しなければならないという法的に覊束された行政行為である。

従って教員は、授業に支障が無い限り、本属長に対し、勤務場所を離れて研修することを承認することを請求する権利があると解すべきである。

原判決は右のしくみについて次のように言う。

同法二〇条二項の趣旨は、……教員が自主的研修を勤務場所を離れて行うことを希望する場合には本属長の承認を受けることを求め、これにより校務の運営と研修との調和をはかったものと解される。

右は明白に「授業」とあるものを「校務の運営」と恣意的に拡張する点において、誤っていることを後述するが、この点は措き、承認の手続において、調整ということを考える観点そのものは誤りではない。

しかし、原判決は、

校長は、授業の支障についても、単に予定された授業時間の有無のみでなく、授業に関連する教育過程の編成、生活指導等の教育的措置、学校運営上の校務分担に伴う各種の業務等について、当該学校の具体的教育目的ないし個別的教育状況に照らして実質的に支障を及ぼすか否かの見地から総合的に判断しなければならないと解すべきである。この意味において、教特法二〇条二項は、教員から勤務場所を離れての研修願が提出された場合に、右申し出を承認するか否かの裁量判断権を本属長に付与しているものというべきである。

と判示して、教特法第二〇条二項は、本属長たる校長に、教員の研修申し出を承認するか否かの裁量判断権を付与していると解釈した。

その根拠とするところは、次のとおりである。

教育公務員は、公務員としての身分を有するのであるから、勤務場所で授業その他の日常業務を所定の勤務時間内に遂行すべき本来的義務(職務専念義務)を負い、また右服務の監督権者としての校長は、教員の配置を定め、その勤務時間の割振りをすること等を介して、生徒等に対する教育目的を達成するため、教員の生徒等に対する授業その他の教育的措置等の校務を円滑に遂行させるための責務を有しているものである。

このような解釈は、「総合的判断」の名の下に殆ど自由裁量を許し、法が教員に対し具体的権利として保障した自主的研修を、校長の恣意によって、恩恵的かつ特権的に付与されるものに変容させる解釈である。

現実に兵庫県教育委員会は、県下の高校の校長会を通じて週休二日制実現のステップとして一九八九(平成元)年度の一年間に二日、研修の名目で休暇をとることを許すという妥協的合意を一部の労働組合との間で交しているが(甲第一九号証)、「総合的判断」や「弾力的運用」(4項)の美名の下に、かかる合意の存在や運用そのものを秘匿して、合意の当事者である特定の労働組合の構成員や、校長に従順な教員にのみこれを承認し、上告人のような「反抗的教員」に対しては、本来の意味での研修すら承認しないというような不公正かつ不公平極まる「運用」が為されている。

原判決は右のような事態をも容認し、

甲第一九号証によれば、授業日において研修が承認されるのは「授業及び児童・生徒の安全管理等公務運営に支障がない場合」に限定されていることが認められるのであるから……判断を左右するものではない。

と判示している。

しかし、文言上の限定がどうであれ、「総合的判断」が「裁量的判断権」に基づいて行われ、「弾力的運用」に委ねられるとき、現実に生じるのは判断権を持った者の恣意による支配であり、研修は恩恵的に付与されるヤミ休暇となり果てるのである。

前述の如く、教育を受ける権利を保障し、教育基本法の定める教育の目的、教育の方針を実現するため、教員の身分を保障し、その権利を規定するという明白な立法目的をもって制定された教特法は、第二〇条二項の「承認」の裁量判断権を校長に委ねることによって、校長がその恣意に従って、教員を不当に支配する道具としてのヤミ休暇になり果てる危険性(兵庫県においては、既に現実化している)をもつのである。

敗戦前における命令主義、特別権力関係の下におかれた教員の身分を法律によって保障した趣旨にもとることこれより甚だしいものはない。

かかる恣意的運用を排し、法の趣旨を適正に実現するためには「承認」という行政行為を客観的なかつ厳格な法の覊束の下に置く解釈が絶対的に必要なものである。

原判決の解釈は、この点を誤ったものであり、これは判決に影響を及ぼすことが明らかな法令解釈の誤りである。

七 研修の内容についての判断権を本属長に与えた誤り―上告理由第三点

教特法二〇条二項は、「教員は、授業に支障のない限り、本属長の承認を受けて勤務場所を離れて研修を行うことができる」と定め、研修の唯一の要件を「授業に支障がない限り」と明定している。

従って、本属長たる校長の判断は授業に支障があるかないかの一点のみについて為されるべきものであって、研修の内容について介入することは法の予定しないところである。

これは、前述のとおり、本務である教育について職務命令を受けない保障が教師の「教育権」の保障である以上、職務としての教育研究についても原則として職務命令を受けない「自主研修権」の保障がなければならないからである。研修と教育が不可分一体であることに鑑みれば、研究への介入はそのまま教育内容への介入へとつながるのであり、教育に対する「不当な支配」となるからである。

しかるに原判決は、次のとおり判示してこれを誤っている。

そこで教特法二〇条二項は、前記責務を有する校長等の本属長(以下「校長」という。)の右服務に対する監督を教員が事実上離脱する勤務場所を離れての研修を行おうとするときは、校長に、①教員が申出た当該日時場所において研修しようとする行為を承認することにより授業に支障が生ずることはないか、②研修と称する行為が右離脱を相当とするべき研修に該当するかどうかの二要件をまず判断させることによって、校長に前記校務の運営と教員の右勤務場所を離れての研修との調整を計ることとしたものと解するのが相当である。

右の②が本項での問題点である。

「研修と称する行為が右離脱を相当とするべき研修に該当するかどうか」という判示の中の「右離脱を相当とするべき研修」という概念の内容は、甚だ不明確であるが、学校内で行うことが可能なものを排除するという意味のみであればまだしも、本件におけるが如く「研修の目的、内容の重要性、緊急性」を含んで判断するということになると研修の授業の準備としての性格上、校長の判断作用は、当該教員の授業計画、その内容とその準備としての研修との関連性についてまで及びこれらへの校長の介入を惹起する。

本件において具体的にみると、第一事件、第二事件においては、特定の在日朝鮮人韓国人生徒の指導のために、参考とする文献を渉漁し、あるいは「在日」生徒指導の先達である神谷教諭に教えを乞い、または視聴覚教材(ビデオテープ)「ある手紙の問いかけ」「日本列島と朝鮮半島」を借り出しもしくは試聴するという内容の研修、第三事件では、右同様の文献の渉漁と上告人の専門である数学教材用視聴覚フィルムの調査、検討である。

視聴覚用教材としてのビデオやフィルムの調査や入手、「在日」生徒の指導の先達に面会して、直に教えを乞うことなどは、通常であれば校長において出張命令を出し、旅費等の支給を受けて行くべき業務であり、本件事件の経過の中でなければ、あるいは校長が被上告人東でなければ、そのように処理されていたケースである。

そうであるのに出張命令を出して、旅費を支給するどころか、上告人が研修として自費で行くことすら否定したのが本件事件であり、被上告人東である。

校長(教頭も含めて)は、教員から授業計画の提出を受けて、これを管理しているとはいえ、現実にその内容にわたって検討する能力はないし、そのような状態にも無い。まして右のような研修計画が授業計画の中でいかなる位置を占めまた関連を有し、あるいはどの程度の重要性があるのかを正しく判断する能力は無い。

従って、これらの判断を校長もしくは教頭に行わせるとすれば、外形的に一応研修らしい体裁が整っているか否かをみるにとどまるか、内容に恣意的に介入して、不正確で恣意的な判断を行うかのどちらかしかあり得ない。

前者を正当とすれば、そのような判断をさせることに大した意味は無いし、後者であるとすれば、職員の自主性、独立性を育て、その待遇を優遇的に保障しようとした教特法の立法趣旨に反し、同法第二〇条二項は、校長が個々の教員の授業計画や内容、その準備たる研修について、恣意的に介入する突破口となる。これによって校長は、不正確な恣意的な判断に基づき、ある教員には軽々に研修を認め、上告人のような「反抗的」教員に対しては、通常出張を認めるようなケースについても研修を認めないというような、極めて差別的な処理すら可能にし、教特法第二〇条二項をして教員を校長の擅断的な支配の下に置くための道具に化してしまう。

法の趣旨に悖ること、これ程甚だしきはない。

教育を不当な支配から守るためには、教員の独立が不可欠であり、教員の自主性、独立性を認めるためには、校長が教育や研修の内容に不当に介入し得ないような法制度上の保障が必要である。

原判決の解釈は右のように、立法趣旨に背反する誤ったものである。

八 「授業」の拡大解釈の誤り―上告理由第四点

1 原判決は、

教育公務員は、公務員としての身分を有するのであるから、勤務場所での授業その他の日常業務を所定の勤務時間内に遂行すべき本来的義務(職務専念義務)を負い、また勤務時間の割振りをすること等を介して、生徒等に対する教育目的を達成するため、教員の生徒等に対する授業その他の教育的措置等の校務を円滑に遂行させるための責務を有しているものである。

ということを根拠として、

右服務に対する監督を教員が事実上離脱する勤務場所を離れての研修を行おうとするときは、校長に、①教員が申出た当該日時場所において研修しようとする行為を承認することにより授業に支障が生ずることはないか、②研修と称する行為が右離脱を相当とすべき研修に該当するかどうかの二要件をまず判断させることによって、校長に前記校務の運営と教員の右勤務場所を離れての研修との調整を計ることとしたものと解するのが相当である。

とし、

校長は、授業の支障についても、単に予定された授業時間の有無のみでなく、授業に関連する教育過程の編成、生活指導等の教育的措置、学校運営上の校務分担に伴う各種の業務等について、当該学校の具体的教育目的ないし個別的教育状況に照らして実質的に支障を及ぼすか否かの見地から総合的に判断しなければならないと解すべきである。この意味において、教特法第二〇条二項は、教員から勤務場所を離れての研修願が提出された場合に、右申し出を承認するか否かの裁量判断権を本属長に付与しているものというべきである。

と判示した。

即ち、教育公務員も公務員であり、授業は当然としてそれ以外の「その他の日常業務」を所定の勤務時間内に遂行すべき本来的義務を負い、校長がこれの服務監督権者であることから、研修の承認に際しては、授業以外の「その他の日常業務」に支障を及ぼすか否かの判断をすべきであるというのである。

2 文理と立法趣旨

教務の職務は「児童(生徒)の教育をつかさどる」ことである(学校教育法第二八条六項、第五一条)。

教特法第二〇条二項の「授業」は、右の規定を受け、教員の職務たる児童(生徒)の教育の中心部分である授業のみが、研修をより優越するものとしてこれに限定して明示し、これへの支障はないことを勤務場所を離れて研修することの要件と定めたものである。

これに対し、「校務」は児童(生徒)の教育とは区別されて校長及び教頭の職務とされており(学校教育法第二八条三項、四項)、法令上、児童(生徒)の教育と校務とは用語上も、また職務権限上も明確に区別されている。

立法者は右のような児童の教育、就中「授業」という用語と「校務」という語の明確な区別の上に立って、教特法第二〇条二項に「授業に支障のない限り」と定めたのであるから、その趣旨に基づき、右条項を解釈しなければならない。

もとより、教員の職務は、児童(生徒)の教育のみに限定されるわけではなく、現実として様々な日常業務を行わなければならず、組織体としての学校の運営上、各学校における組織としての教職員全体の実情に応じて、教員が校務を分担することも当然認められている。

しかし、これらは、教員の本務たる教育とは異なり、付随的な、徒たる職務に過ぎず、本務たる教育に比べて重要性において格段に劣るものであって、立法者が「授業」に限定している趣旨は、教員の職務の中に重要性において優劣の序列のあることを前提とし、教育その中でも授業を最重要し、授業の準備としての研修をこれに次ぐものと位置づけ、その他の業務はこれは劣後するものと評価しているのである。教特法第二〇条二項は、このような重要性の序列の考え方に立って、授業以外の日常業務や校務分担は研修を妨げるものにはならないことを明らかにしているものと言わねばならない。

3 原判決の誤り

原判決は右のような明白な文理及び立法趣旨を全く無視し、条文の文言を離れて、教員の公務員たる地位に基づく職務専念義務と、これへの監督という校長の職務と校務をつかさどるという校長の職務(これらは概念上別個の職務である)とを重ね合わせることにより、「授業」に支障のない限りという明確に限定された条文の要件を拡大し、校長の職務としての校務全般にわたる支障にまで拡げて解釈した。前述のように、法令上の用語としては明確に区別されている「授業」と「校務」との相違を無視し、あたかも条文に「校務に支障のない限り」と定められているかの如き歪んだ解釈である。これでは「児童の教育」の中でもとくに「授業」に限定して定められた同条項の本来の趣旨は全く歪められ、研修は授業以外の諸業務より優越するとする立法趣旨は完全に蔑ろにされてしまう。

これは法解釈の名を籍りた法の改「悪」であって、司法作用としての裁判所の権限を越えるものであって司法権の濫用である。

抑々、原判決がいみじくも、解釈根拠として上げる公務員としての職務専念義務は、一般の公務員の義務である。教特法は、教員について一般の公務員には認められない身分上、待遇上の特別の地位を認めてこれを優遇するという立法目的に基づいて制定されたものであり、同法第二〇条二項はその優遇の典型例である。同条が一般の公務員の地位、待遇に対して特別の例外を設けたものであることは、何人も否定できないものであるところ、これを解釈するのに、公務員の地位、義務一般を根拠にして制限的に理解したのでは立法の目的に全く背反することになる。

第二 事実誤認―上告理由第五点〈以下省略〉

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